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from EDITOR|ENGINE 2011.1 No.124


 徳大寺有恒さんに、むかしどこかの編集者が訊いた。
「先生、好きなものを先に食べますか、それともあとの楽しみに残しておきますか」と。
 たんに会話を盛り上げたいと思ってのことなのか、性格判断のためなのか、このポピュラーな質問を、かれがなぜ徳大寺さんにしたのかはわからない。そのとき僕は、そのかれとともに、徳大寺さんとコーヒーを飲んでいた。くゆらしていた葉巻を灰皿に置いて、徳大寺さんはいった。
「それは先に食べますね」
「どうしてですか?」
 僕が予期していたのは、好きでないものから食べて満腹したら、せっかくの好物を存分に味わうことができないから――、といったたぐいの平凡な答だったけれど、徳大寺さんはぜんぜん別次元の回答をした。
「だってさ、残しておいても、それを確実に食べられるという保証はないじゃないか。だろ」
 徳大寺さんは、不確かな未来を当てにして、いまの好機を見逃すのは馬鹿げている、といったのだ。たしかに、好きでもないものを食べているあいだに、いつ不測の事態が起きないともかぎらない。テーブルがひっくり返るような地震が来るかもしれないし、頭上の天井が落ちてくるかもしれない。本人がなにかの発作を起こしてしまうかもしれない。どんなことでも起こり得るのだから、「いま、ここ」のチャンスを逃すな、というわけだ。
 ラテン語に、「カルペ・ディエム」という表現がある。カルペは、花や果実を「摘み取れ」という意味で、ディエムは「その日」だ。つまり、「その日の花を摘め」ということなのだが、このことばは古代ローマの詩人、ホラティウスの詩(第1巻第11歌)によって有名になった。ラテン語学者の山下太郎さんが、みずから運営するサイト(「山下太郎のラテン語入門」)に載せた訳から抜粋すると、「カルペ・ディエム」のくだりはこんなふうだ。
(前略)
 酒を漉し、短い人生の中で遠大な
  希望を抱くことは慎もう。
 なぜなら、僕らがこんなおしゃべ
  りをしている間にも、
 意地悪な「時」は足早に逃げてい
  ってしまうのだから。
 今日一日の花を摘みとることだ。
 明日が来るなんて、ちっともあて
  にはできないのだから。
 徳大寺さんは、古代ローマの詩人とおなじ洞察を示したのである。
 ちなみに、「カルペ・ディエム」は、僕たちによりなじみのある英語では、「シーズ・ザ・デイ」(その日を逃がすな)という慣用句になっている。到来したチャンスは即座に掴め、という意味だ。
 このカルペ・ディエムをふくむホラティウスの詩句を、スコットランドの女王メアリーは、腕時計に刻んでいたともいう。彼女が生きた16世紀半ばには、時計はいまのように客観的な時を知らせて、現世的な所用に支障をきたさないための実用的な道具ではなかった。「足早に逃げていく」「意地悪な“時”」があるということを、想い起こさせる小さな装置だったのだ。
 やはり古代ローマ発祥の表現に「メメント・モリ」というものがある。「メメント」は「記憶せよ」、「モリ」は「死」だ。つまり、死ぬことを忘れるな。カルペ・ディエムとおなじことを裏返しにいっている、とも解釈することができる。
 メメント・モリの格言を図像化したのが、ルネサンス期のドイツ人画家、ハンス・ホルバインの一連の骸骨の木版画であることは、ご存知のかたも多いとおもう。現代の反抗的なロックン・ローラーや、革ジャン&ジーンズでモーターサイクルに乗ったり、町を闊歩したりする「ロッカー」が、服などに好んであしらう「スカル&ボーンズ」(交差する2本の骨の上に載る頭蓋骨)は、メメント・モリの図像的表現としてのダンスする骸骨に由来している、と見ることができる。  カルペ・ディエムとメメント・モリを、その日その日の享楽を追い求めよ、という意味にとらえてもいいけれど、その「享楽」はむろん、物質的なものとはかぎらない。
 さて、僕は徳大寺さんのように、好きなものから食べることが、いまでも、なかなかできない。好きでもないものにまず手を伸ばすくちだ。もしかしたら、なんであれ、まず我慢することが美徳だ、と教えられてきたせいなのかもしれない。カルペ・ディエムとメメント・モリのラテン語のセットを、僕が折に触れて思い出すのもおなじ理由からだろうか。「時」はことしも足早に逃げ、2011年がもうすぐそこに、顔をのぞかせている。     (鈴木正文)
 
 
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