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from EDITOR|ENGINE 2011.4 No.127


 都心に大雪が降った次の日の夕刻、締め切りまっさかりのデスク・ワークに倦んだ僕は、編集部のある雑居ビルの前の路地に出た。未明まで数センチ積もっていた雪は、昼に太陽が出たせいで、いまでは電柱の足元だけに中途半端な小山をつくって、わずかな名残りをとどめていた。煤けたシャーベットのようなそれに、目を向ける通行人はいなかった。
 大通りのほうから、ちょっとうつむきかげんに、ランドセルを背負った男の子が歩いてきた。かれは珍獣でも見るように、雪塊とも氷塊ともつかないそれをじっと見て立ち止まった。小学3年生ぐらいだろうか。少年はスニーカーのつま先で、塊をつつきはじめた。最初はその固さをたしかめようとするようにおずおずと、そして次第に、山そのものを崩そうとするかのように熱中して。
 しかし、かれは崩しきってしまいたいわけではなかった。というのも、せっかく崩したものを、また足で戻しはじめたからだ。そして、散らかった雪のあらかたを電柱の下に集めると、さっきよりはいくぶん生気を得たのか、軽やかな足取りでそこを立ち去っていった。
 僕はじぶんの少年時代をふと思い出した。学校から帰る途中に遠回りしたり、突然駆けだしたりすることなしに帰ったことがあっただろうか、と。あるとき思いついて、1匹のアリも踏まずに帰ろうとしたことがあった。僕が育った都心でも、そのころはまだ、小道はふつうに舗装されていなかったし、土がむき出しの空き地もそこここにあったから、地面にはいつもたくさんのアリが歩いていた。そのどれをも絶対に踏まないと決めると、軽業師か、さもなければ、ヘタなダンサーのように歩かざるを得なかった。
 そんな気まぐれにどんな意味があったかといえば、それはたんに目的地に向かってコンスタントに歩くだけのことが、退屈でしかたなかったからだ。電柱の下の雪塊を崩しては元に戻した少年が、なんであんなことをしたのかといえば、かれもきっと退屈だったからだろう。
 子どもは退屈に耐えられない。
 裏返せば、おとなは退屈に耐えられる。いや、退屈に耐えられる度合いに応じて、僕たちはおとなになっていくのかもしれない。
 僕にはシトロエン・フリークだった時代があって、そのころはルノーもプジョーもふくめてフランス車にぞっこんだった。いまでもフランス車、なかでもシトロエンが好きだけれど、少なくとも戦後のフランス車にかぎれば、ほとんどがすごい高級車でも、すごい専門スポーツカーでもなくて、ふつうの実用車だった。それはいまでもそうだ。それでも、フランス車は見て、乗って、触って楽しいクルマだ。それというのも、フランス車にはフランス人のエスプリがあるから、といわれたものだ。
 エスプリは、普通には「精神」とか「才気」とか翻訳されるけれど、「機智」であったりもして、どれと特定することはむずかしい。なんであれ、そこに人間らしい精神のはたらきがあれば、それをエスプリというというのが僕の実感だった。人間らしい精神のはたらきというとき、なにをもって「人間らしい」のかといえば、人間は動物とちがって退屈を知っているから、たとえば退屈を憎むというのは、人間らしい精神のはたらきだ、とおもう。なかでも退屈なのは、変哲のない日々の暮らしであるにちがいなく、ならばクルマもふくむ日用品や日々の食事などにこそエスプリの出番がある、とかれらはかんがえるのではないか。
 そんな漠然とした思いを胸に、あるとき、サルトル研究家であるフランス文学者の永井旦さんに、フランスの実用車はなぜおもしろいのか、と尋ねたことがあった。すると、永井さんは「アンファンテリスム」というもうひとつのキイワードを教えてくれた。infantilism前――。
 そのまま訳せば、それは幼児性というようなことで、子どもっぽさといってもかまわない。フランス人がなにより好むのは、ちゃんとしたおとななのにアンファンテリスムのある人だし、それがモノならば、子どもっぽい仕掛けがあったり、子どもっぽい楽しさを提供してくれるものだ、というようなことを、永井さんは僕に教えてくれた。
 この教えは、いまでも僕のなかに強く残っている。現実のフランス人がどこまでアンファンテリスムの信奉者なのかは知らないが、退屈に耐えられない子どもの心に積極的な価値を見いだす思想に賛成だ。人間らしく生きることは、一面では退屈に耐えることだ。じじつ、僕たちは耐えて、秩序を支えている。けれど、だからこそ、退屈を救う精神の発露は歓迎され、評価されなければならない。本当は、おとなだって、退屈に耐えられないのだ。 (鈴木正文)
 
 
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